ホノルルマラソンへ!
2011年に奈良工場を開設した時の体重が、これまでの人生最高の約90Kg!人間ドックは最悪の結果でした。
このままではいけないと思い、奈良工場の一件が少し落ち着き始めた2012年よりジョギングを開始しました。
最初は、ちょっとの距離でも息が切れて大変でしたが、なんとか頑張り続けて1年後には75Kgまで減量できましたが、その後は代謝が悪いのか?酒の飲み過ぎか?変化無しでした。
それでも、ほぼ毎日走り続け、3年経ってフルマラソンでも走ってみるかと思うようになりました。
でも、制限時間があると完走は厳しいな〜「制限時間の無いフルマラソン大会」をググってみると、、、ホノルルマラソンがヒット!
そして2015年ホノルルマラソンに初めて出場してなんとか5時間を切るタイムで完走できました。
それ以来ですから今回で5年連続になります。
毎年、師走の12月第2日曜日と会社が一番忙しい時期で、スタッフには申し訳ないのですが、このまま元気なうちは続けられるまで出場したいと思います。
下の写真は、昨年のゴール手前100mくらいの地点で撮影したものです。
弊社のジョギング用5本指ソックスを購入したので、これを履いて走ってきます。
ホノルルマラソンのメインスポンサーはJALなのですが、毎回ミュージシャンの方が来てコンサートがあるんです。
JALページから、無料チケットも入手済み
今まで、BEGINさんAIさんのコンサートを間近で見させて頂きました。
今回は、サンプラザ中野さん!『RUNNER』歌ってくれるんでしょうね。
私もカラオケで、よく歌う曲なのでとても楽しみです。
それでは行ってきます。
三笠の歴史 Part14
2012年旧型の編機は稼働し始めましたが、今度は従兄弟である工場長と次第にうまく行かなくなっていきました。
その理由は、三笠奈良工場の工場長として来て頂いていましたが、工場長は自宅にも工場があり、自身でも靴下の工場を営む2足の草鞋でした。
当然、私もそれは知っていて、納得し従兄弟から弊社の工場で働きたいと頼まれたので、希望した月給をお支払いして来て頂いたのですが、奈良工場が本格的に稼働し始めて本社スタッフから工場長に対する不満の声が色々と上がり始めてしまったのです。
その理由は、昨日書いた古い編機が高額で中々稼働しなかった事の他にも、工場長の自宅工場の顧客を報告無しに弊社の工場に一番で招いたり、弊社で購入した筈のロッソ機(靴下のつま先を縫う機械)2台を知り合いの内職に出して共用していた等が発覚したり他、それが不満の声として本社会議に意見として出るようになったのです。
そして、工場長は自ら弊社の奈良工場を退く事になりました。
このような結果になったのは、全て私の責任だと反省しています。
そして、工場には旧型の扱い難い編機ばかりと、高齢の熟練技術者3名そして従兄弟の甥っ子若手見習い1名の4名になりました。(後工程スタッフは除く)
熟練技術者の方々は、個々は人柄も技術も素晴らしいのですが、それぞれ編機に対する情熱と考え方が違うので、工場内ではしばしば大喧嘩!その度に大変な事になり、また新たな問題でした。
奈良工場の未来を考えると、高齢の熟練技術者しか扱いの難しい編機では無理だと判断し、当時唯一日本の丸編機メーカーだった永田精機の最新型K式編機172を7台購入して奈良工場に配置しました。
これが大正解!古い編機と違ってトラブルは少ないし生産効率がメチャクチャ向上したんです。
しかも、自社で色々な靴下をクイックに開発できるようになり、本社スタッフのモチベーションも次第に向上して行きました。
つづく、、、
下のブルーの編機が、最初に7台購入した永田精機K172です。
今日は、本社前のバーゲン2日目でした。
また朝から大勢のお客様にいらして頂き、昼頃になると品薄状態になりました。
そして、とうとうお越し頂いたお客様から、品薄状態に対するクレームをいただいてしまったのです。
ご迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした。
その後、通常の仕事が忙しいにも関わらず、営業もデザインスタッフも、みんな必死でサンプル商品を集めたり、値段を付けたりと頑張っていました。
明日は、最終日です。
品薄になる事もあるかと思いますが、スタッフ一同皆様のお越しをお待ちして居ります。
三笠の歴史 Part13
2011年工事が始まってから、しばらくしてからあの東日本大震災が!この後で建築資材や大工さんが不足しましたが、奈良工場は、すでに工事が始まっていたので同年4月中旬には改装工事が完成しました。
その後、初代工場長の従兄弟から勧められて購入した旧型編機が数台搬入されてきたのですが、旧型でボロボロなのにビックリ!私が20代の時奈良で修行していた時の編機より古かったのです。
掃除されて綺麗にはなりましたが、その後購入した機械屋さんのお爺さんがメンテナンスに来て編機を稼働させるまでにかなり時間を要していました。
そんな中で、奈良工場の近所にあり、昔から本社と取引のある靴下工場の社長が、弊社の工場を見にきて、「どんな編機買いましたん?ちょっと見せてもろーてもいい?」と聞かれて、私は問題ないと思ったので、「いいですよ」と工場の中へ、、、
「社長この機械なんぼで買いはりました?」と聞かれたので、価格を答えると「えーこんなんお金払わんと持ってってくれへんような編機ですよ〜」と驚かれてしましました。
これを聞いて、機械屋のお爺さんに言いましたが、「希少価値がある編機やしちゃんと動くから」と言われ、自分が納得して購入したので仕方ないと諦めて我慢していました。
でも、しばらくしても編機は動かなかったので、ついに機械屋のお爺さんに対して私は「希少価値あっても動かなかったら鉄くずと同じだから返品させてくれ」キレてしまいそれ以来、機械屋のお爺さんは来なくなりました。(ちゃんとお金は払ってあります。)
困り果てていたら、外注でロッソ(つま先抜い)をお願いしている方が、「腕のいい技術者いるから紹介しよか?」と言ったので、直ぐにアルバイトで来て頂きました。
来て頂いた技術者は、その当時で80才くらいの方でしたが、噂通りで確かに腕が良く、購入した全ての編機がやっと動き出しました。
つづく、、、
下の写真が、工場ができたばかりの時に搬入された古い機械です。(2011年4月)
そしてなんと、この下の写真が、2019年2月です。全ての編み機をチェーンもドラムも無いコンピューター制御の編機に買換えを完了!今の方が工場が新しく感じられます。
今日から本社前は靴下大セール!
10時開店の1時間前から最初のお客様が並び始めて、夕方までお客様は途切れる事なくいらして頂きました。
ありがとうございました。
三笠の歴史 Part12
2010年の海外で工場を作る事を取り止めた事は、今から考えると大正解だったと思います。
この当時は、チャイナプラスワンと良く言われていた時期でした。
中国の他にどこかは、日本でも良いのでは?日本で靴下工場を始めるなら、日本一の靴下の産地である奈良県以外に考えられないと思い立って直ぐに奈良へ飛んで行きました。
先ずは、母方の実家靴下工場を営んでいる従兄弟に奈良に工場を作りたいと相談してみました。
後日、従兄弟が横浜本社に夫婦で尋ねて来て、「奈良で工場を始めるならやらせてくれないか?」と言われ、ノウハウの無かった私は喜んで引き受けました。
その後、従兄弟が推薦する工場物件を一緒に見にいきました。
靴下の街である広陵町の中心にある靴下団地でしたが、かなりスペースが狭く古い!ちょっと私と考えている規模と違っていました。
あまりにイメージが違っていたので、自分で不動産屋を回り物件を探すと、元靴下工場だった物件で、廃業された場所が見つかり、しかも家賃も格安だったので即決しました。
建物の図面を元に、Illustratorで、生産商品の流れを中心にレイアウトを考え2011年1月に三笠奈良工場新設の大改装工事が始まりました。
つづく、、、
下の写真は、大改装工事中の奈良工場です。
今日は、いつもお世話になっている横浜起業支援財団(IDEC 横浜)さんの支援成果 事例集作成のインタビューがありました。
上海事務所も2007年から中国の展示会出展やビジネスマッチングでのご協力を頂いたり、横浜本社でも、ビジネスマッチングや法律相談もお願いした事があるので、これまでの経緯を思い出しながらお話しさせて頂きました。
スタッフの皆さんは、親身になって色々と動いて頂けるので、横浜の企業さんは是非ご利用した方良いと思います。
三笠の歴史 Part11
2010年弊社の将来を考え靴下の卸売から靴下製造メーカーへのシフトを真剣に考える様になっていました。
時間があれば、上海近郊の物件を見学に行って色々試算をして構想をしていたのですが、上海は家賃も年々高騰し、労働者の賃金の上昇率は毎年20%以上そして国防動員法が施行されてしまいました。(国防動員法とは、中華人民共和国で2010年7月1日から施行された法律で、 内容を簡単に言えば、中国国内で戦争や武力衝突が発生した際に、金融機関や立海空の交通輸送手段、港湾施設、報道やインターネット、医療機関、郵便、建設、貿易、食糧などの民間資源をすべて政府の管理下に置くことができる、というもの。)こんな悪条件では、中国に工場を作って靴下を生産するなんてリスクが大き過ぎると断念してしまいました。
でも、やっぱり三笠としての生産工場が欲しい!
ベトナム・タイ・バングラデシュ等も検討しましたが、なかなか管理するのも難しく、いずれは中国と同じ様に、家賃も人件費も上がってしまうと思いこちらも諦めてしまいました。
そして、私の中では工場を建設するという夢は次第に消えかけていってしまったのです。
つづく、、、
下の写真は、毎週物件を探していた時の写真です。(上海郊外の松江の工業団地)
先週末は、本社と物流合同の忘年会が行われました。
全て、企画進行は全て本社の若手スタッフにお任せして、私は乾杯のご挨拶!!
10月の売上げは、ちょっと厳しかったのですが、11月は昨年を超えていたので、12月に寒さがやってくれば目標は達成できると思います。
みなさんあと残り1ヶ月頑張って下さい。乾杯!という感じのコメントでスタートしました。
以前は、カラオケ等の2次会もセットでしたが、最近はジジ抜き?になってしまったみたいなので、おとなしく帰りました。
まあ、楽しんで貰えればそれで良いと思います。
三笠の歴史 Part10
今朝、中国検品工場社長の朱さんから連絡があり、中国靴下工場の女性社長が、10月28日の裁判の判決で懲役4年の実刑判決を受けたとの報告でした。
詳しい内容は、よく分かりませんが、中国では裁判の案件や判決がネットで閲覧出来るらしく、間違えないみたいです。
なんか、このブログで女性社長の事を思い出していたので、非常にショッキングなニュースでした。
靴下専門の貿易会社を抜かして、直接弊社と取り引きして生産数量が増えたのまでは良かったのですが、立派で大きな工場を建ててしまいその後は売り先を増やす事も出来なかったので、工場の維持ができなくなったのだと思います。販売力のある靴下専門の貿易会社を抜かして弊社との直接取引したので、取引を再開する事も出来ず、弊社に対しての大幅値上げという方法しかなかったのでしょう。
悪循環になってしまったのだと思います。
気の毒なニュースでした。
今日の写真は、2007年に朱さんが開設した検品工場の外観です。
建物は古いですが、中は下の様に清掃もしっかりとしていて綺麗でした。
朱さんにお願いをして作って貰った検品工場の内部です。
開設当初は、弊社から2名指導に行って、その後は定期的に指導をしていました。
今では、他社の検品も多く取り扱っているんです。
つづく、、、
先ほど、上海から戻り、そろそろ忘年会が始まるので行って来ます。
三笠の歴史part9
日本へ乗り込んできた中国靴下工場の女性社長の件は、まだ記憶が整理されていないので、後日思い出したら書こうと思います。
2006年の暮れに開設した上海三笠ですが、開設後順調で、中国の北京、成都、天津、深セン、広州、香港など日系GMSさんへの納品が増え、2008年には事務所を2倍に拡大しスタッフも7名にまで増えました。
しかし、長くは続かずに中国独特の問題や日本人駐在員が不在だったのもあり次第に取引が減ってしまいました。
一番ダメだったのは、私が中国の変化に方針を合わせる事が出来なくて、せっかくのお取引をダメにしてしまったと反省しています。
現在は、開設当初と同じスペースの事務所で、スタッフは2名に減り開設当初と同じ人数!振り出しに戻って新たな気持ちで頑張りたいと思います。
下の写真は、広かった時の上海三笠事務所です。
中国出張に来ています。
この上海虹橋の遠東国際広場に事務所を開設してもう13年ブログを書きながら色々な事があったのを思い出し何をどう書いて良いか判らなくなっています。
特に借入金も無く、なんとか維持できています。
三笠の歴史part8
女性社長の協力工場は、写真の様な、かなり大きな敷地に写真手前にある大きくてゴージャスなオフィスビルと後ろ少し見えているかなり大きな工場を建ててしましいました。 なんで?そしてこんなに立派な工場を作ってしまったの?前の工場でも十分だったのにと思いました。 そして女性社長は、直ぐ弊社に対して商品の大幅値上げ要求してきたのです。 そんな要求なんてのめる筈も無く、弊社は、せっかく良い関係にあった女性社長の工場から他の工場へ次第に生産を変更する様になって行きました。 弊社がメインの取引先だったこの女性社長の工場は、工場を大きくしたのにも関わらす受注が激減してしまいました。 その後この女性社長の取った行動は、、、なんと!!! 元弊社の本社の中国人スタッフを通訳に連れて来日し、弊社のメインのお取引先様へ乗り込んで行ったのでした! つづく、、、 写真は女性社長の建てた新工場(完成直前)
工場の中(下の写真)
観光シーズン真っただ中の奈良にきています! ホテルの宿泊客も多くいつもよりかなりお値段も高めで更に部屋も狭くなっています。 やはり早朝から、橿原神宮へ参拝に来ている方も多くいらっしゃいました。 今日は、工場へ東北のバイヤー様にいらして頂き、工場見学と外注工場の見学と西日本営業所には、奈良県庁の方にお越し頂き工場立地の紹介や補助金等についてご説明頂き、工場も見て頂きました。
県庁の職員の方も熱心なので、なんとか奈良県での雇用を増やしてお役に立ちたいと思います。
三笠の歴史 Part7
2001年以降は、中国の浙江省海寧市にある女性社長の工場とタッグを組んで、ヒット商品がどんどん生まれ工場の規模は次第に拡大していったのです。
まだ20代だった女性社長の管理や考え方も素晴らしく、三笠との協力関係が出来上がり工場で生産する殆どの商品は、弊社向けという感じにまでなりました。
工場の建物は古かったのですが、清掃や管理がしっかりされていて、工場点検にいらしたお取引先様もこの工場は良いと驚く程だったのです。
丸編み靴下は完了し、次は5本指靴下を作れる工場を探して2003年頃から紹興の近くにある上虞市の周辺の工場へ通う事になりました。
この頃の中国は、まだ無理にお酒を飲まされるし、タバコも無理に吸わされる習慣だったので大変でした。
工場での商談が終わると、夜はホテルのレストランで円卓を囲み、日本人の来客という事で、あまり関係のない様な銀行さんやら役人さんやらまでやってきて大人数での宴会!
入れ替わり立ち替わりにお酌され乾杯(カンペイ)=一気飲みそしてタバコを渡されて火を付けられるの繰り返し!倒れる位まで飲まされました。(今ではこんな事はほぼありません)
2ヶ月に1度ぐらいは上虞という街にへ行き5.6年は通ったと思います。(現在は仕入れ担当スタッフが通っています。)
そんな中国の活気に魅了され、中国では2003年位まで中国企業との合弁しか認められていませんでしたが、独資での企業が可能になり2006年に日系企業が集中する上海古北に上海三笠(美咖莎服饰贸易有限公司)を資本金20万ドルにて開設しました。(もうすぐ13年になります。)
この頃から上海にマンションを借り開設後しばらくは、年間200日以上中国という生活が続きました。
タラレバになりますが、資本金で使った20万ドルでマンションを買っていれば、軽く10倍以上になっていました。
そして2007年頃、関係の良かった浙江省海寧市にある女性社長が高級な造りの大きな工場を落成し、弊社との関係に亀裂が入り始めたのでした。
つづく、、、
今日の写真は、上海三笠開設した当初のスタッフ2名の曹さんと林さんです。
昨日は、ブランディングの先生が来てミーティングが行われましたが、なるべくお金を使わないで、商品をバズらせる方法を伝授して頂ける様にお願いしました。
具体的なサンプルも出来上がって来ているので、早くバズってくれると良いですね。
おっさんには、専門用語が多くて難しいです。
三笠の歴史 Part6
メインのお取引先のユーコープ様はバブル崩壊の時期に、大型店の出店が続いてバブルが崩壊した後でも弊社の売上げは順調だったのですが、、、暫く年月が経過してから、衣料・雑貨の売り場を縮小して専門店等に変更する改装が始まってしまいました。
その影響で、1990年代後半になると売り上げが急激に減ってこのままでは潰れてしまうほど厳しい状況になり販売先を増やさなくては生き残れない!
とはいえそう簡単に新規の取引先を増やす事は難しい、、、さてどうしよう???
今までのユーコープさんの実績を持って、全国の生協さんへ商談に行き始めたのですが、中々簡単にはいきませんでした。
そんな中、商談に行ったある生協のバイヤーさんが、「みんなどこの業者も3足1,000円とか同じ様な靴下ばっかりでつまらない100円均一の時代だから1足100円くらいのインパクトある靴下持ってこいそうしたら取引きしてやる」と課題を与えられました。
この時期は、安い靴下は韓国製の方が圧倒的に多い時代で、靴下の輸入商社さんは更に安い靴下を求めて中国へシフトを始めていた時期でした。
これは、商社もどこも使わないで、中国の工場と直接取引するしか無い!2000年に中国へ行って工場と直接商談し、写真の様な10足980円で販売できる商品の開発に成功!
この商品が爆発的に売れてたんです。
たまたま最初に取引した中国靴下工場の女性社長が、独立したばかりで前職が、大手の靴下工場で品質管理を担当していた事もあり商品の評判も良くこの工場で作る新規商品は、次々に売れて全国の生協さんの取引口座を頂く事ができました。
つづく、、、
今年で、5年連続出場になるホノルルマラソンが、近づいているので、週末は2日連続ハーフマラソンを走りました。
あまりやり過ぎると、アキレス腱や膝にも影響がでるといけないので、ほどほどにしないといけないとは思うのですが、調節が出来ないんです。
明後日から奈良へ行き、来週は中国の予定なので、あっという間にホノルルマラソンの本番になりそうなので焦っています。