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社長ブログ - 靴下・ソックス・ストッキングの製造販売 株式会社 三笠

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靴下メーカー三笠の
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スタッフの皆に感謝!

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年12月16日(月)

繁忙期で、更に今年は例年に無いくらいの忙しいというのに1週間もお休みを頂き今年もホノルルマラソンに行かせて頂きました。

それなのに今回も、スタッフの皆さんから「完走おめでとうございます。」と物流センターから綺麗な花束と本社からは私が好物のイチゴを頂き感激です。

また来年に向けて頑張りたいという気持ちになりました。

ありがとうございます。

今日撮影した写真をアップしました。

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今日は、午前中に本社会議を行いその後で、本社と物流の冬の賞与明細を渡しながらスタッフ面接を行いました。

中々話をする機会がないスタッフもいるので、貴重な時間なんです。

明日から、奈良へ行き引き続きスタッフ面接と工場と西日本営業所の会議を行う予定になっています。

 

三笠の歴史 Part14

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年12月05日(木)

2012年旧型の編機は稼働し始めましたが、今度は従兄弟である工場長と次第にうまく行かなくなっていきました。

その理由は、三笠奈良工場の工場長として来て頂いていましたが、工場長は自宅にも工場があり、自身でも靴下の工場を営む2足の草鞋でした。

当然、私もそれは知っていて、納得し従兄弟から弊社の工場で働きたいと頼まれたので、希望した月給をお支払いして来て頂いたのですが、奈良工場が本格的に稼働し始めて本社スタッフから工場長に対する不満の声が色々と上がり始めてしまったのです。

その理由は、昨日書いた古い編機が高額で中々稼働しなかった事の他にも、工場長の自宅工場の顧客を報告無しに弊社の工場に一番で招いたり、弊社で購入した筈のロッソ機(靴下のつま先を縫う機械)2台を知り合いの内職に出して共用していた等が発覚したり他、それが不満の声として本社会議に意見として出るようになったのです。

そして、工場長は自ら弊社の奈良工場を退く事になりました。

このような結果になったのは、全て私の責任だと反省しています。

そして、工場には旧型の扱い難い編機ばかりと、高齢の熟練技術者3名そして従兄弟の甥っ子若手見習い1名の4名になりました。(後工程スタッフは除く)

熟練技術者の方々は、個々は人柄も技術も素晴らしいのですが、それぞれ編機に対する情熱と考え方が違うので、工場内ではしばしば大喧嘩!その度に大変な事になり、また新たな問題でした。

奈良工場の未来を考えると、高齢の熟練技術者しか扱いの難しい編機では無理だと判断し、当時唯一日本の丸編機メーカーだった永田精機の最新型K式編機172を7台購入して奈良工場に配置しました。

これが大正解!古い編機と違ってトラブルは少ないし生産効率がメチャクチャ向上したんです。

しかも、自社で色々な靴下をクイックに開発できるようになり、本社スタッフのモチベーションも次第に向上して行きました。

つづく、、、

下のブルーの編機が、最初に7台購入した永田精機K172です。

nagata

今日は、本社前のバーゲン2日目でした。

また朝から大勢のお客様にいらして頂き、昼頃になると品薄状態になりました。

そして、とうとうお越し頂いたお客様から、品薄状態に対するクレームをいただいてしまったのです。

ご迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした。

 

その後、通常の仕事が忙しいにも関わらず、営業もデザインスタッフも、みんな必死でサンプル商品を集めたり、値段を付けたりと頑張っていました。

明日は、最終日です。

品薄になる事もあるかと思いますが、スタッフ一同皆様のお越しをお待ちして居ります。

 

 

三笠の歴史 Part13

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年12月04日(水)

2011年工事が始まってから、しばらくしてからあの東日本大震災が!この後で建築資材や大工さんが不足しましたが、奈良工場は、すでに工事が始まっていたので同年4月中旬には改装工事が完成しました。

その後、初代工場長の従兄弟から勧められて購入した旧型編機が数台搬入されてきたのですが、旧型でボロボロなのにビックリ!私が20代の時奈良で修行していた時の編機より古かったのです。

掃除されて綺麗にはなりましたが、その後購入した機械屋さんのお爺さんがメンテナンスに来て編機を稼働させるまでにかなり時間を要していました。

そんな中で、奈良工場の近所にあり、昔から本社と取引のある靴下工場の社長が、弊社の工場を見にきて、「どんな編機買いましたん?ちょっと見せてもろーてもいい?」と聞かれて、私は問題ないと思ったので、「いいですよ」と工場の中へ、、、

「社長この機械なんぼで買いはりました?」と聞かれたので、価格を答えると「えーこんなんお金払わんと持ってってくれへんような編機ですよ〜」と驚かれてしましました。

これを聞いて、機械屋のお爺さんに言いましたが、「希少価値がある編機やしちゃんと動くから」と言われ、自分が納得して購入したので仕方ないと諦めて我慢していました。

でも、しばらくしても編機は動かなかったので、ついに機械屋のお爺さんに対して私は「希少価値あっても動かなかったら鉄くずと同じだから返品させてくれ」キレてしまいそれ以来、機械屋のお爺さんは来なくなりました。(ちゃんとお金は払ってあります。)

困り果てていたら、外注でロッソ(つま先抜い)をお願いしている方が、「腕のいい技術者いるから紹介しよか?」と言ったので、直ぐにアルバイトで来て頂きました。

来て頂いた技術者は、その当時で80才くらいの方でしたが、噂通りで確かに腕が良く、購入した全ての編機がやっと動き出しました。

つづく、、、

下の写真が、工場ができたばかりの時に搬入された古い機械です。(2011年4月)

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そしてなんと、この下の写真が、2019年2月です。全ての編み機をチェーンもドラムも無いコンピューター制御の編機に買換えを完了!今の方が工場が新しく感じられます。

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今日から本社前は靴下大セール!

10時開店の1時間前から最初のお客様が並び始めて、夕方までお客様は途切れる事なくいらして頂きました。

ありがとうございました。

三笠の歴史 Part12

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年12月03日(火)

2010年の海外で工場を作る事を取り止めた事は、今から考えると大正解だったと思います。

この当時は、チャイナプラスワンと良く言われていた時期でした。

中国の他にどこかは、日本でも良いのでは?日本で靴下工場を始めるなら、日本一の靴下の産地である奈良県以外に考えられないと思い立って直ぐに奈良へ飛んで行きました。

先ずは、母方の実家靴下工場を営んでいる従兄弟に奈良に工場を作りたいと相談してみました。

後日、従兄弟が横浜本社に夫婦で尋ねて来て、「奈良で工場を始めるならやらせてくれないか?」と言われ、ノウハウの無かった私は喜んで引き受けました。

その後、従兄弟が推薦する工場物件を一緒に見にいきました。

靴下の街である広陵町の中心にある靴下団地でしたが、かなりスペースが狭く古い!ちょっと私と考えている規模と違っていました。

あまりにイメージが違っていたので、自分で不動産屋を回り物件を探すと、元靴下工場だった物件で、廃業された場所が見つかり、しかも家賃も格安だったので即決しました。

建物の図面を元に、Illustratorで、生産商品の流れを中心にレイアウトを考え2011年1月に三笠奈良工場新設の大改装工事が始まりました。

つづく、、、

下の写真は、大改装工事中の奈良工場です。

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今日は、いつもお世話になっている横浜起業支援財団(IDEC 横浜)さんの支援成果 事例集作成のインタビューがありました。

上海事務所も2007年から中国の展示会出展やビジネスマッチングでのご協力を頂いたり、横浜本社でも、ビジネスマッチングや法律相談もお願いした事があるので、これまでの経緯を思い出しながらお話しさせて頂きました。

スタッフの皆さんは、親身になって色々と動いて頂けるので、横浜の企業さんは是非ご利用した方良いと思います。

三笠の歴史 Part11

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年12月02日(月)

2010年弊社の将来を考え靴下の卸売から靴下製造メーカーへのシフトを真剣に考える様になっていました。

時間があれば、上海近郊の物件を見学に行って色々試算をして構想をしていたのですが、上海は家賃も年々高騰し、労働者の賃金の上昇率は毎年20%以上そして国防動員法が施行されてしまいました。(国防動員法とは、中華人民共和国で2010年7月1日から施行された法律で、 内容を簡単に言えば、中国国内で戦争や武力衝突が発生した際に、金融機関や立海空の交通輸送手段、港湾施設、報道やインターネット、医療機関、郵便、建設、貿易、食糧などの民間資源をすべて政府の管理下に置くことができる、というもの。)こんな悪条件では、中国に工場を作って靴下を生産するなんてリスクが大き過ぎると断念してしまいました。

でも、やっぱり三笠としての生産工場が欲しい!

ベトナム・タイ・バングラデシュ等も検討しましたが、なかなか管理するのも難しく、いずれは中国と同じ様に、家賃も人件費も上がってしまうと思いこちらも諦めてしまいました。

そして、私の中では工場を建設するという夢は次第に消えかけていってしまったのです。

つづく、、、

下の写真は、毎週物件を探していた時の写真です。(上海郊外の松江の工業団地)

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先週末は、本社と物流合同の忘年会が行われました。

全て、企画進行は全て本社の若手スタッフにお任せして、私は乾杯のご挨拶!!

10月の売上げは、ちょっと厳しかったのですが、11月は昨年を超えていたので、12月に寒さがやってくれば目標は達成できると思います。

みなさんあと残り1ヶ月頑張って下さい。乾杯!という感じのコメントでスタートしました。

以前は、カラオケ等の2次会もセットでしたが、最近はジジ抜き?になってしまったみたいなので、おとなしく帰りました。

まあ、楽しんで貰えればそれで良いと思います。

 

三笠の歴史 Part7

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月19日(火)

2001年以降は、中国の浙江省海寧市にある女性社長の工場とタッグを組んで、ヒット商品がどんどん生まれ工場の規模は次第に拡大していったのです。

まだ20代だった女性社長の管理や考え方も素晴らしく、三笠との協力関係が出来上がり工場で生産する殆どの商品は、弊社向けという感じにまでなりました。

工場の建物は古かったのですが、清掃や管理がしっかりされていて、工場点検にいらしたお取引先様もこの工場は良いと驚く程だったのです。

丸編み靴下は完了し、次は5本指靴下を作れる工場を探して2003年頃から紹興の近くにある上虞市の周辺の工場へ通う事になりました。

この頃の中国は、まだ無理にお酒を飲まされるし、タバコも無理に吸わされる習慣だったので大変でした。

工場での商談が終わると、夜はホテルのレストランで円卓を囲み、日本人の来客という事で、あまり関係のない様な銀行さんやら役人さんやらまでやってきて大人数での宴会!

入れ替わり立ち替わりにお酌され乾杯(カンペイ)=一気飲みそしてタバコを渡されて火を付けられるの繰り返し!倒れる位まで飲まされました。(今ではこんな事はほぼありません)

2ヶ月に1度ぐらいは上虞という街にへ行き5.6年は通ったと思います。(現在は仕入れ担当スタッフが通っています。)

そんな中国の活気に魅了され、中国では2003年位まで中国企業との合弁しか認められていませんでしたが、独資での企業が可能になり2006年に日系企業が集中する上海古北に上海三笠(美咖莎服饰贸易有限公司)を資本金20万ドルにて開設しました。(もうすぐ13年になります。)

この頃から上海にマンションを借り開設後しばらくは、年間200日以上中国という生活が続きました。

タラレバになりますが、資本金で使った20万ドルでマンションを買っていれば、軽く10倍以上になっていました。

そして2007年頃、関係の良かった浙江省海寧市にある女性社長が高級な造りの大きな工場を落成し、弊社との関係に亀裂が入り始めたのでした。

つづく、、、

今日の写真は、上海三笠開設した当初のスタッフ2名の曹さんと林さんです。

shanghai

昨日は、ブランディングの先生が来てミーティングが行われましたが、なるべくお金を使わないで、商品をバズらせる方法を伝授して頂ける様にお願いしました。

具体的なサンプルも出来上がって来ているので、早くバズってくれると良いですね。

おっさんには、専門用語が多くて難しいです。

 

三笠の歴史 Part6

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月18日(月)

メインのお取引先のユーコープ様はバブル崩壊の時期に、大型店の出店が続いてバブルが崩壊した後でも弊社の売上げは順調だったのですが、、、暫く年月が経過してから、衣料・雑貨の売り場を縮小して専門店等に変更する改装が始まってしまいました。
その影響で、1990年代後半になると売り上げが急激に減ってこのままでは潰れてしまうほど厳しい状況になり販売先を増やさなくては生き残れない!
とはいえそう簡単に新規の取引先を増やす事は難しい、、、さてどうしよう???
今までのユーコープさんの実績を持って、全国の生協さんへ商談に行き始めたのですが、中々簡単にはいきませんでした。
そんな中、商談に行ったある生協のバイヤーさんが、「みんなどこの業者も3足1,000円とか同じ様な靴下ばっかりでつまらない100円均一の時代だから1足100円くらいのインパクトある靴下持ってこいそうしたら取引きしてやる」と課題を与えられました。
この時期は、安い靴下は韓国製の方が圧倒的に多い時代で、靴下の輸入商社さんは更に安い靴下を求めて中国へシフトを始めていた時期でした。
これは、商社もどこも使わないで、中国の工場と直接取引するしか無い!2000年に中国へ行って工場と直接商談し、写真の様な10足980円で販売できる商品の開発に成功!
この商品が爆発的に売れてたんです。
たまたま最初に取引した中国靴下工場の女性社長が、独立したばかりで前職が、大手の靴下工場で品質管理を担当していた事もあり商品の評判も良くこの工場で作る新規商品は、次々に売れて全国の生協さんの取引口座を頂く事ができました。
つづく、、、

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今年で、5年連続出場になるホノルルマラソンが、近づいているので、週末は2日連続ハーフマラソンを走りました。
あまりやり過ぎると、アキレス腱や膝にも影響がでるといけないので、ほどほどにしないといけないとは思うのですが、調節が出来ないんです。
明後日から奈良へ行き、来週は中国の予定なので、あっという間にホノルルマラソンの本番になりそうなので焦っています。

三笠の歴史 Part5

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月15日(金)

いよいよ元号が平成になる頃に、弊社のメインのお取引先様のかながわ生協さんが、激変の時になりました。
近県の静岡・山梨の生協さんと事業連合して大型の店舗を出店をする事になり、色々な業種から人材を募集しバイヤーさんも外部からの方が入って来たんです。
それに伴って、納入する業者(ベンダー)もGMS(イオン・ヨーカドー等)と取引している大手の新規業者が増えました。
靴下の業者も、今まで2〜3社だったのが、7〜8社に増えてしまい競争が激しくなって来ました。
そして、生活協同組合連合会ユーコープ事業連合さんが、1991年に静岡県袋井市に大型店舗1号店ハーモス袋井が開店そして1992年に神奈川県座間市にハーモス座間を開店させました。
バブル全盛期は、開店・改装・商品の登録作業と大忙しの時期でした!
つづく、、、
写真は、1号店ハーモス袋井店があった場所です。2006年に閉店してオカノになりましたが、2008年に閉店して現在のキーテナントはニトリみたいです。

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中国でのものづくりは、今でも想定外の事が色々と起こるのです。
昨日、上海スタッフから私に電話があり、「社長!決定して発注した工場の社長から連絡があって、見積もりの計算間違っていたから値段が上がります。」との報告でした。
私が「なんで?発注書送った後でそんな認められません」と答えると、「それなら工場は商品を作らないと言っています。」との回答でした。
これに似た事が、最近は多くて困っています。
日本では、考えられないですね。

三笠の歴史 Part4

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月14日(木)

奈良での靴下修行を終了し、私が三笠に入社したのが、1982年(昭和57)でした。
その当時の弊社のメインのお取引先様は、かながわ生活協同組合さんで、売上げのほぼ8割を占めていました。
奈良から戻り、私が担当を任されたのは、県内のスーパーさんや小売店さんで、当時は、車でラウンドして注文を貰ったり集金したりといった仕事でしたが、
入って1年くらいが過ぎた頃に、販売のメインだったかながわ生協さんに対する売上げが半減し、会社存亡の危機がやって来ました。
この時に、かながわ生協さんを担当していた営業スタッフが、私に対して、このままでは会社はダメになるから、2代目のあなたは(ある宗教)に入信しないと会社は良くならないと迫られました。

そして、その宗教の色々な集まりに連れていかれたりしましたが、全く興味が無くお断りしたので、結果的にその営業スタッフは辞表を出し辞めてしまいました。
そして、私は急遽メインのお取引先様のかながわ生協さんを担当する事になったのです!何をしたら良いのか全く分からない中で、先代にとにかく毎日通えと言われ

それから、毎日必死に横浜市瀬谷区五貫目町にあったかながわ生協さんの商品部へ通い詰めバイヤーさんの仕事お手伝いをしてなんとか

売上げも直ぐに回復し、その後は好景気になり昭和63年に今の本社ビルを建てる事が出来ました。
つづく、、、
この写真は、5年前位に撮影した本社ビルです。
昭和64年から、一度大きなリニューアル工事を行いました。

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弊社のデザイナーさんから、新商品のパッケージについての営業スタッフに対してのプレゼンがありました。
素晴らしく良くできたプレゼンにびっくり!今までにない感じのとても良いパッケージに仕上がりそうです。
完成したら、このブログでも紹介させて頂きます。

編機の修業中だった頃

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月13日(水)

当時の奈良の靴下工場には、まだ九州からの集団就職で来る人も大勢いて、大きな靴下工場にはその為の寮が有りました。
労働条件も厳しく、休みは週に1日あるかないかで、工場は24時間稼働でも2交代が当たり前でした。
東京で夜中まで遊んでいた生活から、朝寮を出てから朝、昼、晩の3食を工場の社長宅で食べて、それ以外は仕事と言う生活に一変してしまいました。
当時は痩せていましたが、体力だけには自信があり重たいダスリーの糸ケースを何度も運び喜ばれていましたが、編機について教えて頂いて方の奈良弁が何を言っているのかわからなくて理解できない事が多くあったのですが、悪くて聞き直す事もできなくて困っていました。
その当時の年配の方の奈良弁は日本語じゃない様に聞こえたのです。(大袈裟ではないです。)

それが理由という訳ではないのですが、編み機については覚えが悪く、一緒に入社した奈良県吉野山出身の同僚よりも夜勤を任せてもらう迄にかなり時間が掛かってしまいました。

その当時唯一楽しみだったのは、休みの日に当時奈良県で、非常にカッコ良く見られた横浜ナンバーのマイカーで、信貴生駒スカイラインへ行く事でした。!
つづく、、、
横浜の○○息子は、写真の新車を奈良で廃車に!

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今日は、本社での会議でした。
いつもは、物流から何名か参加するのですが、今月は忙しくて来られないとの連絡で本社スタッフだけで行いました。
今月は、注文点数が非常に多く物流のパートさん達は、土曜、日曜も出勤と平日は残業までして対応してくれているので、本当に感謝です。
納品が落ち着いたら何かお礼したいと思います。