三笠の歴史part9
日本へ乗り込んできた中国靴下工場の女性社長の件は、まだ記憶が整理されていないので、後日思い出したら書こうと思います。
2006年の暮れに開設した上海三笠ですが、開設後順調で、中国の北京、成都、天津、深セン、広州、香港など日系GMSさんへの納品が増え、2008年には事務所を2倍に拡大しスタッフも7名にまで増えました。
しかし、長くは続かずに中国独特の問題や日本人駐在員が不在だったのもあり次第に取引が減ってしまいました。
一番ダメだったのは、私が中国の変化に方針を合わせる事が出来なくて、せっかくのお取引をダメにしてしまったと反省しています。
現在は、開設当初と同じスペースの事務所で、スタッフは2名に減り開設当初と同じ人数!振り出しに戻って新たな気持ちで頑張りたいと思います。
下の写真は、広かった時の上海三笠事務所です。
中国出張に来ています。
この上海虹橋の遠東国際広場に事務所を開設してもう13年ブログを書きながら色々な事があったのを思い出し何をどう書いて良いか判らなくなっています。
特に借入金も無く、なんとか維持できています。
三笠の歴史part8
女性社長の協力工場は、写真の様な、かなり大きな敷地に写真手前にある大きくてゴージャスなオフィスビルと後ろ少し見えているかなり大きな工場を建ててしましいました。 なんで?そしてこんなに立派な工場を作ってしまったの?前の工場でも十分だったのにと思いました。 そして女性社長は、直ぐ弊社に対して商品の大幅値上げ要求してきたのです。 そんな要求なんてのめる筈も無く、弊社は、せっかく良い関係にあった女性社長の工場から他の工場へ次第に生産を変更する様になって行きました。 弊社がメインの取引先だったこの女性社長の工場は、工場を大きくしたのにも関わらす受注が激減してしまいました。 その後この女性社長の取った行動は、、、なんと!!! 元弊社の本社の中国人スタッフを通訳に連れて来日し、弊社のメインのお取引先様へ乗り込んで行ったのでした! つづく、、、 写真は女性社長の建てた新工場(完成直前)
工場の中(下の写真)
観光シーズン真っただ中の奈良にきています! ホテルの宿泊客も多くいつもよりかなりお値段も高めで更に部屋も狭くなっています。 やはり早朝から、橿原神宮へ参拝に来ている方も多くいらっしゃいました。 今日は、工場へ東北のバイヤー様にいらして頂き、工場見学と外注工場の見学と西日本営業所には、奈良県庁の方にお越し頂き工場立地の紹介や補助金等についてご説明頂き、工場も見て頂きました。
県庁の職員の方も熱心なので、なんとか奈良県での雇用を増やしてお役に立ちたいと思います。
三笠の歴史 Part7
2001年以降は、中国の浙江省海寧市にある女性社長の工場とタッグを組んで、ヒット商品がどんどん生まれ工場の規模は次第に拡大していったのです。
まだ20代だった女性社長の管理や考え方も素晴らしく、三笠との協力関係が出来上がり工場で生産する殆どの商品は、弊社向けという感じにまでなりました。
工場の建物は古かったのですが、清掃や管理がしっかりされていて、工場点検にいらしたお取引先様もこの工場は良いと驚く程だったのです。
丸編み靴下は完了し、次は5本指靴下を作れる工場を探して2003年頃から紹興の近くにある上虞市の周辺の工場へ通う事になりました。
この頃の中国は、まだ無理にお酒を飲まされるし、タバコも無理に吸わされる習慣だったので大変でした。
工場での商談が終わると、夜はホテルのレストランで円卓を囲み、日本人の来客という事で、あまり関係のない様な銀行さんやら役人さんやらまでやってきて大人数での宴会!
入れ替わり立ち替わりにお酌され乾杯(カンペイ)=一気飲みそしてタバコを渡されて火を付けられるの繰り返し!倒れる位まで飲まされました。(今ではこんな事はほぼありません)
2ヶ月に1度ぐらいは上虞という街にへ行き5.6年は通ったと思います。(現在は仕入れ担当スタッフが通っています。)
そんな中国の活気に魅了され、中国では2003年位まで中国企業との合弁しか認められていませんでしたが、独資での企業が可能になり2006年に日系企業が集中する上海古北に上海三笠(美咖莎服饰贸易有限公司)を資本金20万ドルにて開設しました。(もうすぐ13年になります。)
この頃から上海にマンションを借り開設後しばらくは、年間200日以上中国という生活が続きました。
タラレバになりますが、資本金で使った20万ドルでマンションを買っていれば、軽く10倍以上になっていました。
そして2007年頃、関係の良かった浙江省海寧市にある女性社長が高級な造りの大きな工場を落成し、弊社との関係に亀裂が入り始めたのでした。
つづく、、、
今日の写真は、上海三笠開設した当初のスタッフ2名の曹さんと林さんです。
昨日は、ブランディングの先生が来てミーティングが行われましたが、なるべくお金を使わないで、商品をバズらせる方法を伝授して頂ける様にお願いしました。
具体的なサンプルも出来上がって来ているので、早くバズってくれると良いですね。
おっさんには、専門用語が多くて難しいです。
三笠の歴史 Part6
メインのお取引先のユーコープ様はバブル崩壊の時期に、大型店の出店が続いてバブルが崩壊した後でも弊社の売上げは順調だったのですが、、、暫く年月が経過してから、衣料・雑貨の売り場を縮小して専門店等に変更する改装が始まってしまいました。
その影響で、1990年代後半になると売り上げが急激に減ってこのままでは潰れてしまうほど厳しい状況になり販売先を増やさなくては生き残れない!
とはいえそう簡単に新規の取引先を増やす事は難しい、、、さてどうしよう???
今までのユーコープさんの実績を持って、全国の生協さんへ商談に行き始めたのですが、中々簡単にはいきませんでした。
そんな中、商談に行ったある生協のバイヤーさんが、「みんなどこの業者も3足1,000円とか同じ様な靴下ばっかりでつまらない100円均一の時代だから1足100円くらいのインパクトある靴下持ってこいそうしたら取引きしてやる」と課題を与えられました。
この時期は、安い靴下は韓国製の方が圧倒的に多い時代で、靴下の輸入商社さんは更に安い靴下を求めて中国へシフトを始めていた時期でした。
これは、商社もどこも使わないで、中国の工場と直接取引するしか無い!2000年に中国へ行って工場と直接商談し、写真の様な10足980円で販売できる商品の開発に成功!
この商品が爆発的に売れてたんです。
たまたま最初に取引した中国靴下工場の女性社長が、独立したばかりで前職が、大手の靴下工場で品質管理を担当していた事もあり商品の評判も良くこの工場で作る新規商品は、次々に売れて全国の生協さんの取引口座を頂く事ができました。
つづく、、、
今年で、5年連続出場になるホノルルマラソンが、近づいているので、週末は2日連続ハーフマラソンを走りました。
あまりやり過ぎると、アキレス腱や膝にも影響がでるといけないので、ほどほどにしないといけないとは思うのですが、調節が出来ないんです。
明後日から奈良へ行き、来週は中国の予定なので、あっという間にホノルルマラソンの本番になりそうなので焦っています。
三笠の歴史 Part5
いよいよ元号が平成になる頃に、弊社のメインのお取引先様のかながわ生協さんが、激変の時になりました。
近県の静岡・山梨の生協さんと事業連合して大型の店舗を出店をする事になり、色々な業種から人材を募集しバイヤーさんも外部からの方が入って来たんです。
それに伴って、納入する業者(ベンダー)もGMS(イオン・ヨーカドー等)と取引している大手の新規業者が増えました。
靴下の業者も、今まで2〜3社だったのが、7〜8社に増えてしまい競争が激しくなって来ました。
そして、生活協同組合連合会ユーコープ事業連合さんが、1991年に静岡県袋井市に大型店舗1号店ハーモス袋井が開店そして1992年に神奈川県座間市にハーモス座間を開店させました。
バブル全盛期は、開店・改装・商品の登録作業と大忙しの時期でした!
つづく、、、
写真は、1号店ハーモス袋井店があった場所です。2006年に閉店してオカノになりましたが、2008年に閉店して現在のキーテナントはニトリみたいです。
中国でのものづくりは、今でも想定外の事が色々と起こるのです。
昨日、上海スタッフから私に電話があり、「社長!決定して発注した工場の社長から連絡があって、見積もりの計算間違っていたから値段が上がります。」との報告でした。
私が「なんで?発注書送った後でそんな認められません」と答えると、「それなら工場は商品を作らないと言っています。」との回答でした。
これに似た事が、最近は多くて困っています。
日本では、考えられないですね。
三笠の歴史 Part4
奈良での靴下修行を終了し、私が三笠に入社したのが、1982年(昭和57)でした。
その当時の弊社のメインのお取引先様は、かながわ生活協同組合さんで、売上げのほぼ8割を占めていました。
奈良から戻り、私が担当を任されたのは、県内のスーパーさんや小売店さんで、当時は、車でラウンドして注文を貰ったり集金したりといった仕事でしたが、
入って1年くらいが過ぎた頃に、販売のメインだったかながわ生協さんに対する売上げが半減し、会社存亡の危機がやって来ました。
この時に、かながわ生協さんを担当していた営業スタッフが、私に対して、このままでは会社はダメになるから、2代目のあなたは(ある宗教)に入信しないと会社は良くならないと迫られました。
そして、その宗教の色々な集まりに連れていかれたりしましたが、全く興味が無くお断りしたので、結果的にその営業スタッフは辞表を出し辞めてしまいました。
そして、私は急遽メインのお取引先様のかながわ生協さんを担当する事になったのです!何をしたら良いのか全く分からない中で、先代にとにかく毎日通えと言われ
それから、毎日必死に横浜市瀬谷区五貫目町にあったかながわ生協さんの商品部へ通い詰めバイヤーさんの仕事お手伝いをしてなんとか
売上げも直ぐに回復し、その後は好景気になり昭和63年に今の本社ビルを建てる事が出来ました。
つづく、、、
この写真は、5年前位に撮影した本社ビルです。
昭和64年から、一度大きなリニューアル工事を行いました。
弊社のデザイナーさんから、新商品のパッケージについての営業スタッフに対してのプレゼンがありました。
素晴らしく良くできたプレゼンにびっくり!今までにない感じのとても良いパッケージに仕上がりそうです。
完成したら、このブログでも紹介させて頂きます。
編機の修業中だった頃
当時の奈良の靴下工場には、まだ九州からの集団就職で来る人も大勢いて、大きな靴下工場にはその為の寮が有りました。
労働条件も厳しく、休みは週に1日あるかないかで、工場は24時間稼働でも2交代が当たり前でした。
東京で夜中まで遊んでいた生活から、朝寮を出てから朝、昼、晩の3食を工場の社長宅で食べて、それ以外は仕事と言う生活に一変してしまいました。
当時は痩せていましたが、体力だけには自信があり重たいダスリーの糸ケースを何度も運び喜ばれていましたが、編機について教えて頂いて方の奈良弁が何を言っているのかわからなくて理解できない事が多くあったのですが、悪くて聞き直す事もできなくて困っていました。
その当時の年配の方の奈良弁は日本語じゃない様に聞こえたのです。(大袈裟ではないです。)
それが理由という訳ではないのですが、編み機については覚えが悪く、一緒に入社した奈良県吉野山出身の同僚よりも夜勤を任せてもらう迄にかなり時間が掛かってしまいました。
その当時唯一楽しみだったのは、休みの日に当時奈良県で、非常にカッコ良く見られた横浜ナンバーのマイカーで、信貴生駒スカイラインへ行く事でした。!
つづく、、、
横浜の○○息子は、写真の新車を奈良で廃車に!
今日は、本社での会議でした。
いつもは、物流から何名か参加するのですが、今月は忙しくて来られないとの連絡で本社スタッフだけで行いました。
今月は、注文点数が非常に多く物流のパートさん達は、土曜、日曜も出勤と平日は残業までして対応してくれているので、本当に感謝です。
納品が落ち着いたら何かお礼したいと思います。
三笠の歴史 Part3
横浜本社へ戻ったので、調子にのって三笠の歴史のつづきを書きます。
昭和51年に現在本社のある港南区日野南3丁目2ー71号へ移転したのですが、長年印刷工場として使われていたので、平屋建てのボロボロの建物でした。
この頃で、三笠のスタッフはパートさんを含んで10名程度で売上げは2億くらいだったと思います。
靴下とは関係ないので、弊社のホームページには書いていませんが、昭和54年頃に有限会社みかさを立ち上げて、港南台駅から徒歩5分くらいの場所にある212(ツーワンツー)ビル1階で和食みかさというお店を出していました。(7〜8年営業の後に閉店)
私が、高校生の時には、ここで出前や板前さんの手伝いをたまにやっていたんです。
高校の時は、直ぐにバイクの免許を取得して、朝から近所の読売新聞笹下販売所で、新聞配達のアルバイトそして昼は学校へ行き夜は関内駅前のセンタービル最上階に「カウベル」というライブのお店がありそこでウエーターをやっていました。
高校の3年間と専門学校へ通っていた時は、良く働き良く遊んだ時期でした。
あまりに遊び過ぎて、先代からそろそろ真面目に靴下を勉強しろと、奈良県大和高田市にあった「タケムラ靴下」さんへ編み立ての勉強へ行く事になってしまいました。
つづく、、、
この写真の場所が、私が2年修行したタケムラ靴下さんだった所で、現在は、梅田メリヤスさんと三山(糸屋さん)の事務所と配送所になっています。
横浜マラソンでの販売
昨日行われた横浜マラソンで、パシフィコ横浜にて弊社の靴下を販売して頂きました。
残念ながら、私は中国出張の為に残念ながら見に行く事が出来ませんでしたが、本社スタッフから写真入りの報告があり、大盛況で大量に追加注文頂きましたと嬉しい連絡でした。
来年も是非よろしくお願い致します。
今回も無事に中国での仕事が終了してこれから帰国致します。
国際輸入博覧会の展示会場では、弊社の販売委託先の方とゆっくり商談する事も出来たので、今後の中国での販売に繋がれば良いと思います。
新規生産商品の工場も非常に協力的になってくれて、厳しい要求にも対応してくれるとの事でした。
これは靴下とは別の仕事ですが、上海三笠のメインの仕事に成長させたいと思っています。
三笠の歴史 Part2
昨日の続き、、、
私が、小学校の低学年までは、自宅兼事務所にて営業していましたが、事業の拡大により磯子区中原にある下の写真のビル1Fに引越しをしました。(現在のグーグルマップの写真)
この頃は、忠実屋さん・かながわ生協さんをメインに近郊のスーパーさんに靴下を納入していました。
週末には、伊勢佐木町の松坂屋さん他での店頭に出店し靴下の販売をしてていました。
私も良く一緒に行って靴下の販売をし販売が終わると、夜には家族で中華街へ行き食事するのが楽しみでした。
夏休み等には、当時の三笠ソックス営業マンの車で一緒に忠実屋さんの店舗を回ったりしていました。(こんな事もOKな時代でしたね。)
その後は、私が中学校の頃に、現在の本社がある港南区日野南にあった印刷工場跡地を購入して移転をしました。
この印刷工場跡地は、近くに大船に松竹の撮影所があったので、映画の「男はつらいよ」のフーテンの寅さんに出てくる寅さんの幼馴染・タコ社長が経営する印刷工場のロケで使われていたそうです。
つづく、、、
今日は午後の羽田発なので、これから上海出張へ行ってきます。