繁忙期で、更に今年は例年に無いくらいの忙しいというのに1週間もお休みを頂き今年もホノルルマラソンに行かせて頂きました。
それなのに今回も、スタッフの皆さんから「完走おめでとうございます。」と物流センターから綺麗な花束と本社からは私が好物のイチゴを頂き感激です。
また来年に向けて頑張りたいという気持ちになりました。
ありがとうございます。
今日撮影した写真をアップしました。
今日は、午前中に本社会議を行いその後で、本社と物流の冬の賞与明細を渡しながらスタッフ面接を行いました。
中々話をする機会がないスタッフもいるので、貴重な時間なんです。
明日から、奈良へ行き引き続きスタッフ面接と工場と西日本営業所の会議を行う予定になっています。
2011年工事が始まってから、しばらくしてからあの東日本大震災が!この後で建築資材や大工さんが不足しましたが、奈良工場は、すでに工事が始まっていたので同年4月中旬には改装工事が完成しました。
その後、初代工場長の従兄弟から勧められて購入した旧型編機が数台搬入されてきたのですが、旧型でボロボロなのにビックリ!私が20代の時奈良で修行していた時の編機より古かったのです。
掃除されて綺麗にはなりましたが、その後購入した機械屋さんのお爺さんがメンテナンスに来て編機を稼働させるまでにかなり時間を要していました。
そんな中で、奈良工場の近所にあり、昔から本社と取引のある靴下工場の社長が、弊社の工場を見にきて、「どんな編機買いましたん?ちょっと見せてもろーてもいい?」と聞かれて、私は問題ないと思ったので、「いいですよ」と工場の中へ、、、
「社長この機械なんぼで買いはりました?」と聞かれたので、価格を答えると「えーこんなんお金払わんと持ってってくれへんような編機ですよ〜」と驚かれてしましました。
これを聞いて、機械屋のお爺さんに言いましたが、「希少価値がある編機やしちゃんと動くから」と言われ、自分が納得して購入したので仕方ないと諦めて我慢していました。
でも、しばらくしても編機は動かなかったので、ついに機械屋のお爺さんに対して私は「希少価値あっても動かなかったら鉄くずと同じだから返品させてくれ」キレてしまいそれ以来、機械屋のお爺さんは来なくなりました。(ちゃんとお金は払ってあります。)
困り果てていたら、外注でロッソ(つま先抜い)をお願いしている方が、「腕のいい技術者いるから紹介しよか?」と言ったので、直ぐにアルバイトで来て頂きました。
来て頂いた技術者は、その当時で80才くらいの方でしたが、噂通りで確かに腕が良く、購入した全ての編機がやっと動き出しました。
つづく、、、
下の写真が、工場ができたばかりの時に搬入された古い機械です。(2011年4月)
そしてなんと、この下の写真が、2019年2月です。全ての編み機をチェーンもドラムも無いコンピューター制御の編機に買換えを完了!今の方が工場が新しく感じられます。
今日から本社前は靴下大セール!
10時開店の1時間前から最初のお客様が並び始めて、夕方までお客様は途切れる事なくいらして頂きました。
ありがとうございました。
2012年旧型の編機は稼働し始めましたが、今度は従兄弟である工場長と次第にうまく行かなくなっていきました。
その理由は、三笠奈良工場の工場長として来て頂いていましたが、工場長は自宅にも工場があり、自身でも靴下の工場を営む2足の草鞋でした。
当然、私もそれは知っていて、納得し従兄弟から弊社の工場で働きたいと頼まれたので、希望した月給をお支払いして来て頂いたのですが、奈良工場が本格的に稼働し始めて本社スタッフから工場長に対する不満の声が色々と上がり始めてしまったのです。
その理由は、昨日書いた古い編機が高額で中々稼働しなかった事の他にも、工場長の自宅工場の顧客を報告無しに弊社の工場に一番で招いたり、弊社で購入した筈のロッソ機(靴下のつま先を縫う機械)2台を知り合いの内職に出して共用していた等が発覚したり他、それが不満の声として本社会議に意見として出るようになったのです。
そして、工場長は自ら弊社の奈良工場を退く事になりました。
このような結果になったのは、全て私の責任だと反省しています。
そして、工場には旧型の扱い難い編機ばかりと、高齢の熟練技術者3名そして従兄弟の甥っ子若手見習い1名の4名になりました。(後工程スタッフは除く)
熟練技術者の方々は、個々は人柄も技術も素晴らしいのですが、それぞれ編機に対する情熱と考え方が違うので、工場内ではしばしば大喧嘩!その度に大変な事になり、また新たな問題でした。
奈良工場の未来を考えると、高齢の熟練技術者しか扱いの難しい編機では無理だと判断し、当時唯一日本の丸編機メーカーだった永田精機の最新型K式編機172を7台購入して奈良工場に配置しました。
これが大正解!古い編機と違ってトラブルは少ないし生産効率がメチャクチャ向上したんです。
しかも、自社で色々な靴下をクイックに開発できるようになり、本社スタッフのモチベーションも次第に向上して行きました。
つづく、、、
下のブルーの編機が、最初に7台購入した永田精機K172です。
今日は、本社前のバーゲン2日目でした。
また朝から大勢のお客様にいらして頂き、昼頃になると品薄状態になりました。
そして、とうとうお越し頂いたお客様から、品薄状態に対するクレームをいただいてしまったのです。
ご迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした。
その後、通常の仕事が忙しいにも関わらず、営業もデザインスタッフも、みんな必死でサンプル商品を集めたり、値段を付けたりと頑張っていました。
明日は、最終日です。
品薄になる事もあるかと思いますが、スタッフ一同皆様のお越しをお待ちして居ります。
2010年の海外で工場を作る事を取り止めた事は、今から考えると大正解だったと思います。
この当時は、チャイナプラスワンと良く言われていた時期でした。
中国の他にどこかは、日本でも良いのでは?日本で靴下工場を始めるなら、日本一の靴下の産地である奈良県以外に考えられないと思い立って直ぐに奈良へ飛んで行きました。
先ずは、母方の実家靴下工場を営んでいる従兄弟に奈良に工場を作りたいと相談してみました。
後日、従兄弟が横浜本社に夫婦で尋ねて来て、「奈良で工場を始めるならやらせてくれないか?」と言われ、ノウハウの無かった私は喜んで引き受けました。
その後、従兄弟が推薦する工場物件を一緒に見にいきました。
靴下の街である広陵町の中心にある靴下団地でしたが、かなりスペースが狭く古い!ちょっと私と考えている規模と違っていました。
あまりにイメージが違っていたので、自分で不動産屋を回り物件を探すと、元靴下工場だった物件で、廃業された場所が見つかり、しかも家賃も格安だったので即決しました。
建物の図面を元に、Illustratorで、生産商品の流れを中心にレイアウトを考え2011年1月に三笠奈良工場新設の大改装工事が始まりました。
つづく、、、
下の写真は、大改装工事中の奈良工場です。
今日は、いつもお世話になっている横浜起業支援財団(IDEC 横浜)さんの支援成果 事例集作成のインタビューがありました。
上海事務所も2007年から中国の展示会出展やビジネスマッチングでのご協力を頂いたり、横浜本社でも、ビジネスマッチングや法律相談もお願いした事があるので、これまでの経緯を思い出しながらお話しさせて頂きました。
スタッフの皆さんは、親身になって色々と動いて頂けるので、横浜の企業さんは是非ご利用した方良いと思います。
2010年弊社の将来を考え靴下の卸売から靴下製造メーカーへのシフトを真剣に考える様になっていました。
時間があれば、上海近郊の物件を見学に行って色々試算をして構想をしていたのですが、上海は家賃も年々高騰し、労働者の賃金の上昇率は毎年20%以上そして国防動員法が施行されてしまいました。(国防動員法とは、中華人民共和国で2010年7月1日から施行された法律で、 内容を簡単に言えば、中国国内で戦争や武力衝突が発生した際に、金融機関や立海空の交通輸送手段、港湾施設、報道やインターネット、医療機関、郵便、建設、貿易、食糧などの民間資源をすべて政府の管理下に置くことができる、というもの。)こんな悪条件では、中国に工場を作って靴下を生産するなんてリスクが大き過ぎると断念してしまいました。
でも、やっぱり三笠としての生産工場が欲しい!
ベトナム・タイ・バングラデシュ等も検討しましたが、なかなか管理するのも難しく、いずれは中国と同じ様に、家賃も人件費も上がってしまうと思いこちらも諦めてしまいました。
そして、私の中では工場を建設するという夢は次第に消えかけていってしまったのです。
つづく、、、
下の写真は、毎週物件を探していた時の写真です。(上海郊外の松江の工業団地)
先週末は、本社と物流合同の忘年会が行われました。
全て、企画進行は全て本社の若手スタッフにお任せして、私は乾杯のご挨拶!!
10月の売上げは、ちょっと厳しかったのですが、11月は昨年を超えていたので、12月に寒さがやってくれば目標は達成できると思います。
みなさんあと残り1ヶ月頑張って下さい。乾杯!という感じのコメントでスタートしました。
以前は、カラオケ等の2次会もセットでしたが、最近はジジ抜き?になってしまったみたいなので、おとなしく帰りました。
まあ、楽しんで貰えればそれで良いと思います。
本当に1年が早く感じる様になっています。
この前VISAを更新したばかりだと思っていたらもう1年が経ち本日更新しました。
既に14回目の更新!最近は、長くても1週間の滞在なので、通常ならVISAは必要ないのですが、法人代表なので必ず期限内に更新手続きしないと罰則があるらしいのです。
今回からVISAが写真入で綺麗になっていました。
下のVISA写真ですが、以前は下で今回は上です。
上海の街は、数年前から朝の7時から9時くらいと夕方の時間帯に交差点毎に警察官が監視するようになりました。
それ以来交通マナーは改善されて、今では日本よりもきっちり守っている感じです。
今朝のジョギングで、歩道が走りにくいから自転車道を走っていると警察官に止められてしまいました。
警察官に身分証明で、スマホのパスポート写真を見せると「日本の方ですか?ちゃんとルールを守って下さい」となんと流暢な日本語で注意されてしまいました。
私の写真を撮られ最後に「あぶないので、次回から必ず歩道を歩いてください。」と言われました。
恐るべし上海警察!
2001年以降は、中国の浙江省海寧市にある女性社長の工場とタッグを組んで、ヒット商品がどんどん生まれ工場の規模は次第に拡大していったのです。
まだ20代だった女性社長の管理や考え方も素晴らしく、三笠との協力関係が出来上がり工場で生産する殆どの商品は、弊社向けという感じにまでなりました。
工場の建物は古かったのですが、清掃や管理がしっかりされていて、工場点検にいらしたお取引先様もこの工場は良いと驚く程だったのです。
丸編み靴下は完了し、次は5本指靴下を作れる工場を探して2003年頃から紹興の近くにある上虞市の周辺の工場へ通う事になりました。
この頃の中国は、まだ無理にお酒を飲まされるし、タバコも無理に吸わされる習慣だったので大変でした。
工場での商談が終わると、夜はホテルのレストランで円卓を囲み、日本人の来客という事で、あまり関係のない様な銀行さんやら役人さんやらまでやってきて大人数での宴会!
入れ替わり立ち替わりにお酌され乾杯(カンペイ)=一気飲みそしてタバコを渡されて火を付けられるの繰り返し!倒れる位まで飲まされました。(今ではこんな事はほぼありません)
2ヶ月に1度ぐらいは上虞という街にへ行き5.6年は通ったと思います。(現在は仕入れ担当スタッフが通っています。)
そんな中国の活気に魅了され、中国では2003年位まで中国企業との合弁しか認められていませんでしたが、独資での企業が可能になり2006年に日系企業が集中する上海古北に上海三笠(美咖莎服饰贸易有限公司)を資本金20万ドルにて開設しました。(もうすぐ13年になります。)
この頃から上海にマンションを借り開設後しばらくは、年間200日以上中国という生活が続きました。
タラレバになりますが、資本金で使った20万ドルでマンションを買っていれば、軽く10倍以上になっていました。
そして2007年頃、関係の良かった浙江省海寧市にある女性社長が高級な造りの大きな工場を落成し、弊社との関係に亀裂が入り始めたのでした。
つづく、、、
今日の写真は、上海三笠開設した当初のスタッフ2名の曹さんと林さんです。
昨日は、ブランディングの先生が来てミーティングが行われましたが、なるべくお金を使わないで、商品をバズらせる方法を伝授して頂ける様にお願いしました。
具体的なサンプルも出来上がって来ているので、早くバズってくれると良いですね。
おっさんには、専門用語が多くて難しいです。
いよいよ元号が平成になる頃に、弊社のメインのお取引先様のかながわ生協さんが、激変の時になりました。
近県の静岡・山梨の生協さんと事業連合して大型の店舗を出店をする事になり、色々な業種から人材を募集しバイヤーさんも外部からの方が入って来たんです。
それに伴って、納入する業者(ベンダー)もGMS(イオン・ヨーカドー等)と取引している大手の新規業者が増えました。
靴下の業者も、今まで2〜3社だったのが、7〜8社に増えてしまい競争が激しくなって来ました。
そして、生活協同組合連合会ユーコープ事業連合さんが、1991年に静岡県袋井市に大型店舗1号店ハーモス袋井が開店そして1992年に神奈川県座間市にハーモス座間を開店させました。
バブル全盛期は、開店・改装・商品の登録作業と大忙しの時期でした!
つづく、、、
写真は、1号店ハーモス袋井店があった場所です。2006年に閉店してオカノになりましたが、2008年に閉店して現在のキーテナントはニトリみたいです。
中国でのものづくりは、今でも想定外の事が色々と起こるのです。
昨日、上海スタッフから私に電話があり、「社長!決定して発注した工場の社長から連絡があって、見積もりの計算間違っていたから値段が上がります。」との報告でした。
私が「なんで?発注書送った後でそんな認められません」と答えると、「それなら工場は商品を作らないと言っています。」との回答でした。
これに似た事が、最近は多くて困っています。
日本では、考えられないですね。